18/7/27

DSC_0327対向車線にヘビのようなものが死んでいるらしいのが昼間の運転中に見えて、同じ道を夕方に戻るときに今度は車から降りて見てみたら、やはりヘビが死んでいた。ひかれて体のところどころが張り裂けて、傷口からは内臓なんかが飛び出て、でもまだそれほど時間が経っていないように生々しく赤みがかっていた。顔面は口を開いたまま横に潰れていた。傷のない部位もあったけど、体のほとんどが潰れたり裂けたりしていて、あまり長く見ていられなかった。道で動物がひかれたのをみると、本当にいつもつらくなる。ごめんよ、って思う。

そのヘビの死体には、ハエが数匹たかっていた。ヘビは死んだ、そして食べられていた。それで思い出したのだが、少し前にインドネシアでニシキヘビの体内から女性が見つかった、という報道があった時、人類には「食べられる」という経験も意識も、まったく抜け落ちているよなあと考えた。カニバリズムではなく、異種に食べられるかもしれないという、生存競争としての食人への意識。抜け落ちているから分からないんだけど、仮に食べられたとしたら、食べた何者かがその後すぐに殺されてしまうことについて、どう考えればよいのだろうか。この件で亡くなられた方の死はもちろん悼みたいと思う。けれどその話とは無関係に、もし自分が食べられたなら、食べた生き物を殺してほしくないと思うかもしれない。車道でひかれてしまったヘビは、ほかの生き物に食べられていた。たかっていたのがハエではあるが、その死が別の生命に直につながっている、ということは少なくとも確かだ。ちなみにクジラは死んだ後は海の底に沈んで、数十年にもわたって生き物の栄養源になるらしい。

そんな道を通って行き来したのは、これまたある山奥の方に用があったからなのだ。いま、仕事でとても大きなものと対峙している時な気がする。それは世の中のなにをも変えないけれども、きっと大切な仕事になる。

それと今日は夕食にまたコーンご飯を作ってしまった。おいしすぎて食べ過ぎた。今夏のコーンご飯は今回で最後にしようと思う。太るだけだし。

あと、いま家で映画「アンコール!!」を観ている。まだ途中だけど、主人公の家族が亡くなる場面で、堰を切ったようにぼろぼろと涙が流れてきた。

それが凡庸でよくある日常的な経験である、ということと、実際に経験してみたときそれはとてもつらいことだ、ということを、みんな知っている。

(中略)

痛みというものが存在する、ということと、でもそれを共有することはできない、ということと、そしてそれを共有できないということをみんな知っている、ということと。

私たちは、共有できないものでつながっている。「それを共有できない」という端的な事実を、みんなで共有している。
(岸政彦氏ブログ「SOCIOLOGBOOK」より『共有できないということをみんな知っている』)

かけがえのない存在の死は、世界ではあまりにありふれていて取るに足らない。誰かの死は世界を少しも動かさない。ただ単に、誰もがその、ありふれたかけがいのない悲しみを抱えて生きている、ということ。それを思うととても切なく、なんだか途方もない気持ちになる。

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